(14) 根岸の競馬場

混沌をはらみながら拡大していく都市の周縁にあって、カントリークラブは厳格な秩序をもったひとつのコミュニティーとして維持されて来た。柵で囲まれた敷地内はすべてが整然と整備され、周辺の住宅地や工事中の道路や、雑草が茂り、がらくたの放置された空き地とは一線を画す世界だ。私はミュニでプレイする気楽さが好きだ。カントリークラブには憧れながらも、なじめないだろうと半ば気づいているのは、都市の中ののりしろのように余分な空間で遊んだ少年期の影響かもしれない。

1960年、昭和35年12月4日午前10時36分、神奈川県横浜市中区長者町3丁目35番地にあった長者町産院で私が生まれたとき、親父は磯子カンツリーを回っていたらしい。その日は日曜日で、親父の話ではひとつ前の組で、長者町産院の院長がプレイしていたというから、私のゴルフへの因縁も、生まれた瞬間から始まっていたことになる。

長者町3丁目の角の大場ビルから、となりの山田町にできた公社のアパートの抽選に当たって3歳で引っ越した。どぶのような中村川にかかる中村橋をわたり崖を昇って唐沢の幼稚園に通っていた記憶は鮮明だ。サンタマリア幼稚園。ばら組と年長のひまわり組で一緒だったのは、山手に住む富裕な家のお子たちが多く、弁当のサンドイッチに、アルミの小さなカップに入ってシールされたいちごジャムやピーナツバターなんかが添えられていたりして、ひどくうらやましかった。一人だけ名前の思い出せるハセガワ・ユーコちゃんはベンツで送り迎えだったなあ。昭和40年でベンツはまだかなり珍しかったと思う。ユーコちゃんの父上、ハセガワ・キヨシさんは港湾労働者を集める仕事を牛耳っていた親分衆の一人だったようなことを、親父から聞いたような憶えもある。

私の方は崖下の下町のアパートに住む典型的一般サラリーマン核家族の長男で、期待は感じつつも、あまり大きな夢は見ない方がいいような気がしていたと思う。このサンタマリア幼稚園時代に、私のカントリークラブへのアンビバレントな思いの根を見いだすのは、考えすぎだろうか。

それはさておき、5階建てのアパートの5階の右隅の部屋から階段を2段飛ばしで下り、運河の中村川をわたって崖を昇るような急な坂道を上り、墓地を回り込んで南側へ行くと、「根岸の競馬場」があった。地元の私たちはそう呼んでいたが、昭和40年頃はまだゴルフコースで、チェーンリンクの荒っぽい柵に囲まれた広大な緑の風景は幼い目にも新鮮だった。当時の横浜には米軍に接収された地区が多く、とくに港の周辺や、南側に連なる丘から本牧の海まではほとんどが米海軍の施設になっていて、海抜50mの高台にある「根岸の競馬場」もそのひとつだった。

もともとこの場所は、江戸時代の末期、1861年(元治元年、摂津本)、徳川幕府が横浜在留の外国人に公式に貸与した施設で、会員制の社交、娯楽の場だった。横浜根岸競馬場という名称は、1880年(明治13年)にニッポン・レースクラブという名称に改められ、日本人の加入も認められた。そして、1906年(明治39年)、神戸での日本初のゴルフ・コース誕生に刺激を受けた横浜駐在の外国人によって、トラック内の17万平方メートルの芝地に全長2,473ヤードの9ホールがつくられ、11月23日にオープン。改称されてニッポン・レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーション(NRCGA, the golf association of the Nippon Race Club?)が誕生し、すぐに18ホールに増設された。「根岸の競馬場」はゴルフが日本で組織的に行われるようになる最初の場所のひとつなのである。

英語ではワノブ(one of ・・・)という言い方をよく使うので、最初の場所のひとつ、とぼやけた書き方をしてしまったが、文字通り、最初の、なのである。現在に至る、日本で最も古い競技会である日本アマチュア選手権は、当初は六甲と根岸の2つのクラブ対抗戦だった。1907年8月に、神戸と横浜という日本の2大貿易港にあるクラブが「インターポート・マッチ」と称して対抗戦を催し、両サイド8名ずつでフォーサム4試合、シングル8試合によるポイント制の戦いの結果、7対5で神戸が勝った。その試合後の懇親会の席上で、日本アマ開催の話が持ち上がった。提案したのは、根岸の会員だったという。すぐに同年10月20日の第一回は土砂降りの六甲が舞台となった後、第11回までは根岸との交互開催。 36ホールメダル競技第一回日本アマのチャンピオンは根岸のA.B.ローソン(Lowson)。1924年(大正13年)の日本ゴルフ協会創設の7クラブのひとつにも、根岸は名を連ねている。

最初の、はまだある。日本でのゴルフコースとしては、海抜932mの六甲山上の神戸ゴルフクラブ(1901年に4ホール、1903年に9ホール)、兵庫県武庫郡魚崎町の横尾ゴルフ・アソシエーション(1904-1914)に次いで、3番目にできたことになるが、グリーンを芝生にしたのは根岸が日本で最初だった。

ゴルフが、文字となって書籍で紹介された最初は、1879年(明治12年)、文部省発行の運動百科全書シリーズの『體操及戸外遊戯』中に「娯留夫」と当て字をされてのことだったらしいが、日本で出版された最初のゴルフ雑誌はと言えば、1915年(大正4年)12月に根岸の会員のチャールズ・H・ソーン(Charles H. Thorn)が自費出版した『BUNKER』だった。もちろん英文で、1年後に第12号をもって廃刊となったという。

当初は外国人ばかりだった日本アマチュア選手権に初めて出場した日本人は、三井物産ニューヨーク支店から帰国した一色虎児で、1916年の第10回大会、コースは根岸だった。

根岸のコース設計者は、ニッポン・レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーションのキャプテン、アイルランド人のG.G.ブレディー、会員で第2回日本アマ優勝のスコットランド人、F.E.コルチェスター。ふたりは依頼されて、その後、1910年代の半ばに、日本初の日本人のためのコースとしての、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースも設計している。

1918年(大正7年)9月21日の第12回日本アマチュア選手権は、1914年にできた駒沢での開催となった。そして初めての日本人チャンピオンとして井上信が優勝を遂げたばかりか、5位までを日本人プレイヤーが独占したという、画期的大会だった。以後、六甲、根岸、駒澤での持ち回りとなっていた日本アマは、1924年(大正13年)に日本ゴルフ協会(当時の名称は英文で“Japan Golf Association”)設立によって、JGA主催となり、1925年の第18回大会以降、六甲と根岸は開催コースから外れた。

規則の適用が厄介なゴルフにおいては、英文のルールを理解し切れなければゲームにならなかったはずだ。当初、神戸、横浜の外国人に混じって参加した日本人プレイヤーが、ルールの無知を指摘されて悔しい思いをしたというような話が伝えられている。もちろん、外国人クラブから教えられたことは多かったのだろうが、そのまま国際的な会員組織として発展することにならなかったのだから、受け皿としては懐の深い組織ではなかったのだろう。居心地のいいクラブでなかったら、自分たちで自分たちの居場所をつくるしかない。 JGAの設立は、いわば日本ゴルフの独立宣言だったのだろう。根岸は敗戦後に駐留軍に接収されて軍属のレクリエーション施設となり、丘の上の楠や桜で縁取られた広大な緑のコースは、ネイビーの将校や水兵たちの遊び場になった。

もういまはない根岸の競馬場というコース

(14) 根岸の競馬場」への1件のフィードバック

  1. 今では15年来山下町に住んで、子どもの保育園仲間との遊び場が根岸森林公園だったり、いろんな活動の場が鷺山~柏葉あたりで、子どものバッティングセンター通いでよく根岸のドルフィン(いや、「山手のドルフィン」が正しいですね)の前を通って、海を見ていた午後が頭の中でリフレインしている私には、非常に印象深いお話でした。

    私が小1から、ここに越してくるまでの間住んでいた横浜は、光陵高校と同様、横浜の山奥でしたので、海辺の横浜にずっと憧れていましたから・・・

    いいね: 1人

海江田一詩 への返信 コメントをキャンセル