(5) ピート・ダイ

冬の厳しいシカゴ出身のジョー・ジェムセックは、かねてからオーランドの本家ダブスドレッドの常連だった。これは推量の域を出ないが、ダブスのコース・デザインに惚れ込んで名前を頂いたといった話でなく、大げさに言えば心の拠り所みたいな位置にあったのではないか。もっとも、相当のギャンブル好きだったらしい。ダブスでは戦後になってもギャンブルが盛大に行われていた。ギャングも悪党も博打打ちもいたようで、コースでの握りではわざと大負けして、クラブハウスのカードテーブルに着かせるや身ぐるみをはがすという手法が横行していたらしい。ジェムセックがこのオーランドのダブスを賭けでいったん手に入れて、名前だけ頂いて返したという話もある。ジンラミー(カードゲーム)のプロを連れてきて、ダブスのクラブハウスで勝負をさせたこともあった。目撃者によれば、決着がつくまでに1週間かかり、ジェムセックは4万ドルの小切手を切っていたという。終戦直後の4万ドルは半端な金額ではない。

目撃していたその人物とは、戦後の米コース設計界の第一人者たるピート・ダイ(Paul “Pete” Dye)だ。陸軍パラシュート部隊を退役したあと、当時はダブスにほど近いロリンズ・カレッジの学生として、ほぼ毎日、ダブスでプレイしていたという。ピートはロリンズでアリス夫人と出会って、以後、夫婦で数々の名コースをデザインするわけだ。

アリス・ダイ(Alice Dye)の『FROM BIRDIES TO BUNKERS(Harper Colins;2004)』と題するキュートな本のなかに、ピート・ダイとのなれそめが語られているが、舞台はダブスだった。大戦が終わった1945年、復員してきたピートが学生会館の食堂で並んでいるところをアリスが見初め、「かなりいかしてる」と思ったという。アリスはそのままキャッシャーまで後を着いていくが、声をかけるには至らなかった。しかし、翌日、いきなりダブスの練習場で出くわして、そこから付き合いが始まったという。

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ピート・ダイは復員学生にありがちなように、学業よりも突飛な気晴らしに走る傾向があったようで、学友組織の集会でふざけて消火栓から放水してみたり、友だちと賭けをして橋の上からタンパ行きの貨物列車の荷台車に飛び乗ってみたりしていたようだ。もしかしたら、オーランドからタンパへ南下する列車から眺めていたはずの、手つかずの砂地の続く風景が、原型的なイメージとなり、彼のいたずら心と相俟って枕木やウエイスト・バンカーのアイディアにつながっているのかもしれない。

大学卒業後、アリスの実家のあるインディアナポリスで保険代理の仕事をして成功していたピート・ダイは、より意味のある人生を送りたいと考え、1959年にコース設計家となった。そういう動機からなのか、ダイはほかの設計のビッグネームたちと比べると設計報酬がかなり低く、ときには実質的に無料で引き受けることさえあった*)。

1963年には夫婦で1か月をかけてスコットランド旅行に出る。そこで、リンクスの無垢なラフやポットバンカー、ハザードの端境に使われていた鉄道の枕木といったものを初めて目の当たりにした。そして、60年代にロバート・トレント・ジョーンズのつくった距離を求めるコース設計の流れにまったく逆行し、ショットバリューと繊細な転がしのアプローチというドナルド・ロス的価値観に回帰しつつも、別の要素をもつゴルフを模索することになる。

同時代のデザイナーたちは10を越えるコースの設計を同時並行で手がけていたのに対し、ピート・ダイは3つか4つに限っていた。ゴルフコースはどこでも芝や木や砂や水でできていることに変わりはないが、ダイは机上ではなく、文字通り現場でデザインし、造成した。エリアによって異なる数種の芝を使い分けて、見た目の色合いやテクスチャーに変化を付けた。“ウエイスト・バンカー(waste bunker)”と呼ばれる区域は、造成時の下水のトラブルから成り行きでできたと本人は言うが、その後、世界的に模倣された発明だった。

ナチュラルな要素に対峙しながら情熱と創作意欲を注ぎ込んで作られたコースが、たとえば地元インディアナポリスのクルックド・スティック(Crooked Stick, 1966)、ジャック・ニクラスとともに作ったサウス・カロライナ州ヒルトン・ヘッド・アイランドのハーバータウン・ゴルフリンクス(Harbour Town Golf Links, 1969)、さらにはフロリダのTPCソーグラス(TPC at Sawgrass, 1981)、カリフォルニア、パームスプリングスのPGAウエスト・スタジアムコース(1986)、サウス・カロライナ、キアワ・アイランドのオーシャンコース(1990)、そしてウィスコンシンのミシガン湖畔、ウィッスリング・ストレイツ・ゴルフリンクスのストレイツ・コース(Whistling Straits, 1998)といった名コースとなっているのだった。

ときに誤解されるが、浮き島のグリーンも枕木の利用も、ダイの発明ではない。枕木はプレストウィックで見てきた知恵の活用だし、浮き島グリーンの歴史はかなり古い。アトランタのイーストレイク(1908)でもトーマス・ベンデロウがつくっていたし、ロバート・トレント・ジョーンズも1963年にヴァージニア州ウィリアムスバーグのゴールデン・ホースシュー・ゴールドコースで作っている。ウエイスト・エリアにしても、リンクスでは当然の要素であって、わざわざ“造成される”ものではないが、箱庭のようなアメリカン・パークランド・コースには、手つかずの部分が“異質”だったということだろう。

ツアープロから話を聞いておいて、彼らのいやがる要素をあえて取り入れるために嫌われるのだというダイ評も聞く。例えば短いパー4を作る際にブラインドやセミブラインドとなるハーフ・ウエッジのアプローチを強いるような設計にするといったような。

少ない打数であがろうとするツアープロの意図を積極的にデザインに取り入れるのがピート・ダイの手法だ。その際、逆手に取って打数を重ねさせる仕掛けをつくるわけで、その難しさから、設計(architecture)に拷問(torture)という言葉を組み合わせて“architorture”とか、悪魔のようにひどい(diabolical)という言葉をもじって“Dyeabolical”と評されて恐れられることになる。

ピート・ダイ自身、インディアナ・アマをとり、全米アマに5度、全英アマにも出ている技量のゴルファーだったからこそ、プレイヤーに何が可能で、何が喜びにつながるのかを見据えたレイアウトができたのだろう。

そしてピート同様、優れたアマチュアプレイヤーだったアリス夫人は、距離の短いティーの設定を実現させた。非力な女性ゴルファーのための功労者であるばかりでなく、形状もさまざまないくつものティーをもうけるアイディアは、ダイ・デザインがもたらしたコース設計の新機軸だった。

絶対的にキャリーの飛距離がないとどのティーを使ってもハザードに入る、というような設定にはしていないことが多い。難しい要素があっても、自分の力量に合わせてティーを選べばそれを楽しめるコース設計を発明したのがダイなのだった。

2003年、77歳のピート・ダイがダブスを訪れた。

「われわれがプレイしてた頃は、まわりに家なんか一軒もなかったよ、あんなところにはね」

「あんなところ」というのは“at the dadgum place”の訳だ。“dadgum”はアメリカ南部で主に使われる言葉で、わずかな不快感や苛立たしさを含ませるときの形容詞だ。あの頃のダブスは、いまとは全然違うとピート・ダイは言った。

伝えている地元紙オーランド・センティネルの記事の行間からは、ダイが昔を懐かしがっているように読みとれる。ダイ自身が2002年に書いているコラムでは、住宅に囲まれてしまったことを残念がっているようで、「いまでもいいコース(fine course)だが、かつての面白さは失われてしまった・・・」とある。戦後の最も影響力の大きなコース・デザイナーといえるピート・ダイが、いまやダブスは、コース設計としてはたいしたことはないというのなら、私としては願ってもない。たいしたことのない方が、なんとなく安心だ。

ともあれ、終戦で学生に戻ったピート・ダイにとって、もっともノーマルな気晴らしが、授業をサボってダブスでゴルフをすることだった。気晴らしというのは、何も考えないことだ。しばらく何も考えないでゴルフをすることがどれほど重要なことか、私にはわかる。戦争が終わって、兵役を解かれた19歳の若者が、毎日のように無心に球を打っていたというのが、このダブスの歴史なのだ。ダブスには、そんな時間の流れがいくつも折り重なってどこかに沈殿していて、ときどきふわっと漂い出てくるのを感じる。


*)Steve Elling, Swing into History. Orlando Sentinel, Dec.21, 2005

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