極東ゴルフサーキット

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極東ゴルフサーキットの生みの親は、全英オープンで1954年から3連覇を成し遂げ、1958年、1965年にも勝って5勝をあげた、豪のピーター・トムソン。1960年に香港、シンガポール、クアラルンプールでのエキシビション・マッチに出たトムソンは、当地での人々の熱心な様子に強い印象を受け、アジアをめぐるサーキットがあってもいいのではないかと考えました。トムソンは訪れた各国でオープンチャンピオンシップの開催を勧めました。

「トーナメントをつなげてサーキットにするという構想は、アジアのコースへプロたちをみんな連れて来てプレイさせるには、いい方法だっただろう。キム・ホールという世話好きなヤツがいて、私の夢のような考えを実現させるべきだと言って来たんだ」

極東ゴルフ・サーキット(Far East Golf Circuit)は1962年2月8日に公式スタート。2月のフィリピンOPに始まって、シンガポールOP、マレーシアOP、香港OP、最終戦は4月の日本。そこから1965年にタイが加わって6試合。1966年に台湾が入って7試合。

1969年に名称が「アジア・ゴルフサーキット(Asia Golf Circuit)」に変更され、世界に羽ばたくプレイヤーたちのゆりかごになっていきました。デイヴィッド・グラハム、グレッグ・ノーマン、トニー・ジャクリン、グラハム・マーシュ、ボブ・トゥウェイ、ペイン・スチュワート、スコット・シンプソン、トム・パーツァー、青木功、ジャンボ尾崎、陳志忠、ロジャー・デイヴィス、イアン・ベイカーフィンチ、コーリー・ペイヴィンをはじめ、多くのビッグネームがいました。

サーキットを構成する各試合には、成績に応じたポイントが設定され、優勝者は200ポイント、66位タイで10ポイント獲得。最終的な獲得ポイント上位2名は全英オープンへの出場権が与えられ、賞金王はマスターズに招待され、米メモリアル・トーナメントにも招待されるほか、日本のツアーでの年間出場権が与えられました。

残念なことに、日本のプレイヤーは日本国内ツアーの賞金が超高額化し、あまりアジアに足を向けなくなっていきましたが、1972年にアジア・サーキットに加わったアメリカのジョン・ベンダはバンコク空港に747ジャンボジェットが発着するようになったのを見て、いよいよアジアのプロゴルフが西洋化する時代が来たと感じたといいます。ベンダは後にアジア・ゴルフ連盟(Asia Golf Confederation)の理事長となって、サーキットの運営に携わりました。

一方、90年代半ばにはアジアPGAが組織され、独自のツアーを1995年にスタートさせます。その推進者の一人はアジアのスポーツ・マーケティングを切り開く先駆者となったWorld Sport Group の創設者シェーマス・オブライエン。オブライエンは、1992年に香港オープンの結果を伝える新聞記事を読んで、アジア・サーキットにアジアのプレイヤーが少ないことを奇妙に思い、潜在的な可能性を感じたということです。

「地元市場には、地元の商品を」と考えたオブライエンは、マレーシア・ゴルフ協会の理事長だったラムラン・ダトー・ハロンに話を持ち掛け、プレイヤーの意見も聞くために、当時、アジア初のワールド・ゴルファーだったミヤンマーのチラ・ハンにも相談し、1994年7月9日に香港でアジア8カ国の代表者が一堂に会して、アジアPGAツアーを発足させました。

アジアのプロゴルフは1997年の経済危機で事実上崩壊。2004年にはプレイヤーによる新ツアー組織が立ち上げられ、再出発して今日のアジアツアーに至っています。しかし、中国という巨大な市場のあるアジアを統轄するツアーとしては磐石とはいえません。

アジアと共存していた豪ツアーが、これまで独自の単一国内ツアーとして発展してきた日本と韓国、さらに、潜在力の大きな中国とインドをひとつのブロックとして、各国開催される試合をサーキットとしてつなぐワンアジアツアーを2009年からスタートさせ、アジアツアーの強い反発を買いながら6年目に入っています。(2014年4月)

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