この季節はいつにも増してゴルフが恋しい。駅の待ち時間には思わず傘で素振りをしてしまう。あまり派手にはできないが、テークバックやインパクトゾーンでの手の作法をなぞってみる。まわりの視線はちょっと気になる。自分は下手だけどゴルファーなんだぞという、誇らしいような気持ちもどこかにあったりする。
心理学者は、この傘スイングを現実からの逃避だという。私はスポーツの語源が、方向転換とか、日常を離れるという意味だったことを知っているので驚かないが、一応ゴメンナサイと言っておく。逃げ出したいことはたくさんあるわけだし、許されるならいつでもすぐにでも、芝の上に立ちたいのだから。
社会学者は違う見方をする。ゴルフはいまや最も参加人口の多いスポーツのひとつであるから、日常の情景の要素としてある程度普遍性があり、社会的に認められる行為になりえているという分析だ。なるほどフライフィッシングとか、バトントワリングとか、なぎなたや射撃の格好で傘を構えている人は、少なくとも駅ではなかなか見られない。
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無意識の現実拒否、逃避行動でありながら、社会的に是認されているという解釈を受け入れるのは、ゴルファーとしてはやぶさかでない。私の友人には、ゴルフをやらないのに傘スイングはするという男もいるので、説得力もある。ストレスに満ちた生活の中で、一瞬の解放、憩いの瞬間になっているならば立派な社会貢献。手持ち無沙汰の解消に過ぎなくても、はた迷惑でないなら幸いだ。
しかし、われわれ自身、内部に湧くエネルギーはそんなに生やさしいものではないと感じてはいまいか。傘スイングの後の、叶わぬ願いの如き切なさは何なのか。かすかな既視感は、どこから来るのか。ゴルフに捕われている自分に問いかけながらも、理屈を超えた深い次元を感じずにはいられない。人間は、杖や棒を手にした瞬間、いわば魂の深淵から何かが蘇るのではなかろうか。
「真のスイングは初めから自分のなかに存在する」とバガー・ヴァンスは言った。
ゴルフは誰の中にもあり、つねにそこにあるのだ、と私はそっとつぶやく。
(2008年8月26日付毎日新聞夕刊掲載)
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