シューサンカー“パプワ”シューゴーラムは、もし自由にゴルフができていたら「もう一人のゲーリー・プレイヤー」となっていたに違いない。プレイヤーより小柄で6歳年上。1929年、南アフリカ、ダーバンのサトウキビ農園で働くインド系労働者の家に生まれ、10歳で父を亡くし、目の不自由な母を助けるためにキャディーとなった。右打ちで左手が下に来る変則“シューサンカーグリップ”と、その結果の迫力に満ちたスウィングで飛距離を出し、100m以内は自在。週に2日も練習はしなかったが、同伴競技者がたじろぐほどの集中力でプレイした。
あるときキャディーについた彼の才能を見抜いたのは、オーレイ化粧品を創業したグラーム・ワーフ。人種差別を推進していた国にあって信念の人だった。雇用する形で援助したが南アの競技会は欧州系選手に限定されている。本場欧州へと考えたが交通機関で同席することは禁じられていた。ならばとワーフは4人乗りの自家用双発飛行機を購入し、1959年、全英オープン開催のミュアフィールドに向かった。パプワは予選を突破して本戦に臨んだが初日の79が響いてカット落ちに終わる。優勝はG・プレイヤーだった。しかし翌週、オランダ・オープンに出て優勝。翌年と63年にも勝った。オランダ伝統のナショナル・オープンでの3勝はいまも輝く金字塔である。
差別のばかばかしさは、その渦中にあった彼のほとばしる潜在力によって際立った。パプワは、当時の大舞台の一つ、1963年のナタール州オープン選手権に出る。無差別サッカー試合をめぐる合法判決の直後に実現したまれな機会だった。夫人の献身的サポートの甲斐もあって、彼は世界的強豪ハロルド・ヘニングを始めとする103人の白人を抑え、南ア史上初の非欧州系チャンピオンとなった。パプワが自分の車でタイとジャケットに着替えてくると雨が本降りになり、大会関係者は傘の内から優勝杯を手渡して、表彰式を続けるためにクラブハウスへ入るが、歓喜のファンに囲まれたパプワだけは土砂降りの雨に打たれながら外に残された。非欧州系人は中へ入ることを法律で禁止されていたからである。この様子を捉えた地元のカメラマンの写真が世界へ配信されるや、各種競技会への南ア代表の出場停止を打ち出す国が続出した。
パプワは1965年の同大会でも、その年に全米オープンに勝って生涯グランドスラムを達成していたG・プレイヤーを1打差で破って勝った。しかし、絶頂期のプレイヤーを凌駕したことが政府による締め出しを逆に厳しくした。収入も減り、パスポートさえ剥奪された。それまで住んでいた地区が欧州系住民専用区域となり、妻と4人の子を連れて狭い家への転居を強いられた。公安局員に監視され、時にはあからさまな嫌がらせを受けながらもゴルフは続けていたが、やがてふさぎがちになり、大酒を飲み、49歳の1978年6月、心臓発作で死んだ。
(2012年6月号、月刊ゴルフダイジェスト誌掲載)