1952年のフェニックスオープンのマンデー予選で、1番グリーンへ上がってきたチャーリー・シフォードは、ホールの中に糞便が詰められているのを見つけた。1961年、出身地のノース・カロライナでグレーターグリーンズボローオープンに出た際には「殺すぞ」という脅迫電話を受けた。フェアウエイを歩けば水をかけられ、口汚くののしる声が飛んだ。その試合で4位に入ったシフォードは大きな勝利のように感じたという。
「南部で初めての試合だったが、周囲からの圧力と差別は最悪だった。でも私は参らなかったし、プレイをやめようとは思わなかった」
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チャーリー・シフォードは1922年生まれ。13歳でキャディーの職を得た頃にはパーで回るほどの腕前だった。1947年にアフリカ系アメリカ人だけで構成されるUGA(ユナイテッド・ゴルフアソシエーション)の試合に参加し、その全米選手権では5連覇を含む6勝。PGAのツアーで実力を試したいと願ったが、PGAにはメンバーを白人に限る内規があった。野球やフットボール、バスケットボールで黒人選手が活躍するようになっても、依然としてゴルフはプレイヤーもギャラリーも、そしてスポンサーも白人だけのゲームだった。ゴルフ好きだったボクシングの元世界ヘビー級王者ジョー・ルイスが、PGAのポリシーを変えようとしたが叶わなかった。シフォードの苦境を知ったカリフォルニア州の司法長官スタンリー・モスクの働きかけで、PGAは1960年にようやく、トーナメントプレイヤーとしての資格をシフォードに発行した。
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「おまえがすぐやめる弱虫でないのなら、この先、やめたくなるような出来事をいくつか経験することになるだろう」
PGAの内規そのものは1961年11月に撤廃されたが、アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーグ野球選手ジャッキー・ロビンソンがそう警告した通り、晴れて各地での試合に出場できるようになったシフォードを待っていたのは根強い差別的状況だった。それでも1967年、45歳になっていた彼はグレーターハートフォードオープンで初優勝、1969年のロサンジェルスオープンで2勝目をあげた。
「私のしたかったのはゴルフだ」
シフォードは1992年出版の自叙伝の中にそう書いている。成し遂げてきたことは、間違いなく人種差別を克服しようとするアメリカの苦闘の一部だ。しかし、彼を突き動かしていたのは公民権運動の旗手たる思いでもなければ、先駆者としての気負いでもなかった。誰かを打ち負かして優勝杯を手にしたいという気持ちだけがトーナメントに出場する原動力だったとシフォードは語っている。
挫けず、脅迫に屈せず、嫌がらせを乗り越え、世の中を変える力の一部になったシフォードの精神の強さに鳥肌の立つような敬意を感じると同時に、ただゴルフがしたいという素朴で無垢な願いそのものに心を打たれる。
(2014年2月号月刊ゴルフダイジェスト誌掲載)
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