
1892年の秋の朝、多くの移民とともに24歳のトム・ベンデロウを乗せたファーネッサ号が、グラスゴウから6日間をかけてマンハッタンに着いた。ベンデロウは写植の技術を身につけていたので、すぐにニューヨーク・ヘラルド新聞社に採用され、妻と乳飲み子を呼び寄せて毎日10時間、週6日働いた。翌年、休暇中に出会った富裕な事業家が、コース設計を頼んできた。強いスコットランドなまりを聞いて、ゴルフへの造詣を見込んだのだった。出身地アバディーンで幼い頃からゴルフに親しんでいたベンデロウは快諾し、海沿いのリゾート地バネガットベイに数ホールをレイアウトした。これが、1936年に没するまでに彼の手がけた700を超えるコースの最初だった。
新世界アメリカでゴルフの普及に生計のよすがを求めようというのは、ゴルフへの確たる思いのなければできない冒険だったろうが、いったん始めるや20年で600コースをつくった。いまや1万6千を数えるアメリカも1923年には約2千コースだったから、当時、ひとりでほぼ3分の1をデザインしていたことになる。球聖ボビー・ジョーンズを生んだアトランタのイーストレイクや、今年のライダーカップ開催のシカゴのメダイナこそ名門として有名だが、ベンデロウ作の半数以上は誰もがプレイできる公営を含めたパブリックだ。用品販売を目論むAG・スポルディングに見込まれて全米を行脚し、市町村自治体の依頼を受け、一般市民のためのゴルフの場をつくりまくった。この驚異的なペースがゴルフの大衆化を一気に押し進め、アメリカを世界一のゴルフ大国にしたのだった。

ただ、その後のベンデロウは忘れられた存在だ。自動車の普及が進み、都市の近縁にあった彼の設計コースの多くが宅地開発の波に飲まれた。後年、別の設計家に改造された例も多い。消滅したり、改造されたのなら、もともとの出来はあまり良くなかったのだろうという印象が生まれ、粗製濫造のそしりさえ受けた。しかし、ベンデロウの目的は有閑の愛好家を唸らせることではなく、あくまでもゴルフの普及だった。雑誌や新聞に優れた啓発記事を書き、晩年にはイリノイ大学でコース設計の講義も行った。彼はただ自分の居場所を見つけ、与えられたチャンスの中で自分に何が出来るのかを考えて実行し、家族と人々のために働くことで満足して生きた。
残されたコース自体への専門的評価が前に出て、造られたことの意味と時代背景が顧みられないのは仕方ないことなのかもしれないが、ベンデロウへの評価の低さを思うとジャン・ジオノの『木を植えた男』を引き合いに出したくもなる。毎日、荒れ地を歩き、地面に穴をあけてドングリを一つ一つ埋めていった、あの羊飼いエルゼアール・ブフィエだ。荒野は森になり、人々が安らかな暮らしを取り戻したことこそ、ブフィエの思いだった。数十年後に、育った樫の木の個々の樹形をあれこれ言う必要はあるまい。
(2012年3月号月刊ゴルフダイジェスト誌掲載)
*写真出典: Stuart W. Bendelow, Thomas ‘Tom’ Bendelow—The Johnny Appleseed of American Golf. Williams & Company, Publishers. Savannah, Georgia. 2006.