ダブリンに着いたときは、7月の長い夕暮れもさすがにとっぷりと暮れていた。5年前の夏、街並は煤けたように黒い。目抜きのオコンネル通りを走って、リッフィー川に近い古いホテルにチェックインした頃には午後11時を回っていたが、のどを潤そうとテンプルバーに出た。川の南側のこの地区は狭い路地が入り組んでいて、皆が何を飲んでいるのかは立ちこめた匂いですぐわかる。平凡な印象のパブに入って、私もギネスを頼んだ。
ダブリン訪問は、その年の9月のライダーカップの舞台Kクラブを、どうしても見ておきたかったからだった。ライダーカップは欧米各12人のプロによる2年に一度の対抗戦で、私はダレン・クラークのことを考えていた。
「俺は彼女のために強くなくてはならないんだ」と、クラークはエージェントのアンドルー“チャビー”チャンドラーに言っていた。しかし、再発した癌と闘う妻を前にして、どう強くあれるのか。
8月になって、ヘザー夫人は亡くなった。クラークはライダーカップ出場を切望した。その意思を知った欧サイドのキャプテン、イアン・ウーズナムは、推薦枠でクラークを選んだ。ヘザーさんはクラークがライダーカップで戦うことを望んでいた。そのヘザーさんはもういない。私はクラークの出場を心から喜んだ。勝ちたいという気持ちの、クラークより強い者はいないと思った。
しかし、勝負はお涙頂戴的な甘いものではない。本調子にない者を入れるべきでないという反対論も出た。実戦不足が 結果として露呈したり、もしもクラークの中に脆さが見えてしまったら、配偶者を失った計り知れない悲しみと喪失感のただ中にあるクラークを、世界的舞台に引きずり出して見せ物にしてしまった、ということになりかねない。
Embed from Getty Images
ライダーカップ当日、私は米国のスタジオでモニターを見ながら日本への生中継を始めた。初日の1番ティーに上がって来たクラークを迎えたのは万雷の拍手、鳴り止まぬ声援。欧米両サイド全員の志気が高まったように感じられた。クラークは3つのマッチに出て、すべてに勝った。クラークのためにも負けられないという欧選手の思いが、極度のプレッシャーの中で実力を発揮する起爆剤となったかのように、試合は欧圧勝に終わった。
Embed from Getty Images
ゴルフをこよなく愛した翻訳家の故永井淳さんが、あれほど素晴らしい試合はなかったと言っていたのが忘れられない。 柔らかな白い泡の中から流れ込む焦げた大麦の香ばしさが、時系列から解き放たれた記憶をつなぐ。それは過ぎ去った時間と亡くなった人たちへの限りない哀惜だ。店内に流れる音楽が変わって『プリース・プリーズ・ミー』がかかった。歌い始めた誰かの野太い声につられるように大合唱が始まった。私は2日後に行くリバプールではビートルズゆかりのマシュー通りへ行ってみようと思いながら、さらに2杯飲んで店を出た。
Embed from Getty Images
(2011年10月号月刊ゴルフダイジェスト誌掲載)