トーマス・ベンデロウがスコットランドから移住した米国は、40年間で無から世界一のゴルフ大国になった。彼はコースを設計した。その数は1894年からの20年間で600、1936年に亡くなるまでに700以上。いまや1万6千コースある米国も1923年には約2千だったから、ほぼ3分の1をひとりでつくっていたことになる。
1898年、ニューヨーク、ブロンクスのヴァン・コートランド・パークを18ホールにして米国初のパブリックコースに仕立て直し、プレイ時間の予約制度、キャディー養成、巡回監視員導入など、歴史的発明をなした。
用品販売会社に雇われて北米を行脚、コースをデザインし、運営からゴルフの技術、規則、マナーを指導。雑誌等に優れた啓発記事を書き、後にはイリノイ大学でコース設計の講義も行っている。設計のパイオニアだっただけでなく、ゴルフそのもののイノベーターでありプロモーターとして、米国ゴルフ黄金期の土台を築いたのがベンデロウだった。
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球聖ボビー・ジョーンズを生んだイーストレイクCCや、全米プロ選手権開催のメダイナCCこそ有名だが、ベンデロウ作の半数以上はパブリックや公営だ。日本では想像しにくいことだが、ゴルフは米国の公園行政サービスの主要な柱で、「市民に、戸外で行う健康的で安価なレクリエーション活動を提供するため」という目的が現在にいたっても掲げられている。自治体の依頼を受け、 彼は老若男女の慰安と喜びの場を量産した。しかし、その後、宅地に変えられて消滅したものも多く、粗製濫造という不名誉な一言で歴史の片隅に追いやられた。
そのことを悲しんだ孫のスチュアートが史実を掘り起こし、2006年に伝記をまとめている。生前は、ゴルフの伝道者として讃えられていた様子が、当時の新聞や業界誌の記述からよくわかる。ベンデロウの目的はゴルフの普及で、名声ではなかった。後世の幸せの種まきをし続けた人物への評価の低さを思うと、ジャン・ジオノの『木を植えた人』を引き合いに出したくなる。ゴルフを分かちあうことに、持てる力を注いだ人とその思いを忘れずにいたい。
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(2010年7月15日付毎日新聞夕刊掲載)