もし、生粋の浜っ子をスノッブに限定するなら、毎晩、マリンタワーの緑と赤の光が見える場所で育った者、ということになる。本町小学校から老松中学校か吉田中学校へ進むのが絵に描いたような横浜下町っ子ということになる。そう厳しく限定すると中区に住みながら南区の南吉田小学校に行っていた私はさらにマージナルに追いやられてしまうのだが、ともかくマリンタワーは私の住んでいた山田町から近くに見えた。大晦日には港に停泊する船という船が新年の来た瞬間に一斉に汽笛を鳴らす。私の世代の浜っ子なら、年越しそばをすすりながら毎年、それを聞いて特別な気持ちになったはずだ。
雑然、混沌。港湾労働者と浮浪者。丘の上の米軍居住地。外国人の多かった元町商店街(店内にリコリスの匂いのするユニオンというスーパーはアメリカそのものだった)。赤と黄色の中華街。山手から下りる崖にへばりつくような木造の小さな家々、廃油の匂いのする空き地、桜木町の国鉄の引き込み線。日雇いの港湾労働者たちの木賃宿のある扇町や松影町、馬車道の角にあったコーヒー屋。銀杏並木、潮の匂い、山下公園、タンカーの船腹の赤いさび 。私の育った60年代の横浜は、米軍基地と日本一の貿易港の光と陰のなかで、それでも高度成長期の楽観的な気分に満ちていたのだろう。
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幼い頃の記憶の風景に必ずあるのは、町を幾重にも区画する運河だ。中村川、大岡川と名付けられてはいたが、ヘドロの溜まったどぶ川で、濁った水にいろんなゴミを浮かべて淀んでいた。しかし、その頃はまだ機能していて、南仲通に本社のある丸全昭和運輸という運送会社に勤め上げた親父の話を思い出す。乙仲の現場監督の仕事をまかされた若い頃、入港した貨物船から移された砂糖を積んだ艀バージが運河で一晩を明かす際、砂糖が盗まれないように、下請けの艀の業者に代わって艀に寝泊まりしたこともあったという。船主が積み荷の砂糖をどこかにある隠し蓋から紙袋にくすねとって夜の横浜へ繰り出して行くときには、見ても見ぬ振りをするんだと、親父は言っていた。彼らのいく先は伊勢佐木町や裏通りの若葉町、黄金町や日ノ出町だったろうか。昭和30年代の米軍基地のPXからの物資横流しもあったらしいが、親父は危ないことには手を出さなかったようだ。そのかわり、当時、赤いダイヤと謳われた小豆の相場で小金を儲けて、私の生まれた年に開場した磯子カンツリークラブの会員になった。
休日の夕方、コースから帰ってきてスパイクの手入れをしていた父の記憶。おみやげのアングロスイス社のゴルフボール型のチョコレートは、半球にアーモンドがひとつずつ入っていて、銀紙と赤いセロファンにくるまれていた。アーノルド・パーマーのスポーツタオル。あの傘のマークも記憶のなかのかなり古い部分にある。いまでは私がゴルフに入れ込んだ結果、フロリダまで来てそのパーマーのつくったゴルフチャンネルに勤めているのだから、多少の縁を感じさせてもらってもいいだろう。
南吉田小学校へ上がってからは行動範囲も広がり、行くなと親に言われていた桜木町のガード下を歩いていた記憶もあるから、港の北側は瑞穂埠頭のあたりまで行くこともあっただろう。桜木町の海側には国鉄の引き込み線がいくつもあって、大きな倉庫があるほかは、猫じゃらし(イネ科のエノコログサ)ばかり生えた広い空き地だったような気がする。そういう漠然としたところや、さびの浮いた引き込み線の線路を好んでぼんやりと歩いていた少年は、やはりゴルフコースのような広い空間に回帰する。日常という時間と空間にありながら魂が彷徨いだすように、しばらくボーッとしているのが好きなのだ。できれば町のなかやはずれにあって、その境界がはっきりしない方がいい。そうなれば整然たるカントリークラブより、ミュニなのだ。
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本牧にはネイビーの水兵のためのかまぼこのような白い宿舎が、同じ形で何棟も連なっていた。その前の港の脇には軍関係者のためのレクリエーション施設があった。オリンピックサイズのプールに飛び板が突き出していて、ソバカスだらけの女の子たちが嬌声をあげては飛び込んでいた。プールの横にはスタンド付きのフットボール・フィールドがあって、もちろん埋め立てて造ったのだろうが、港の海の縁ぎりぎりまで緑の芝生になっていることになぜか感動した。
後で私は大学でフットボール部に入ることになり、卒業後に社会人ティームである東京ハスキーズでしばらく続けていたときに、何度かこのシーサイド・フィールドで米海軍横須賀基地のシーホークスや、中年ティームのグレイホークス、厚木基地のフライヤーズ、カレッジ・フットボールから上がったばかりのバリバリのプレイヤーがいて凄かった米陸軍横田基地の横田レイダースと試合をした。試合後にフィールドの傍らで彼らが振る舞ってくれるBBQのハンバーガーが楽しみだった。
ついでに、逗子から田浦に抜ける船越に住んでいた母方の叔父、岡本啓三郎の話も思い出す。叔父は休日に横須賀の米軍基地内でフットボールを見るのを楽しみにしていた。
「ゲーム中に乱闘になると、ブラスバンドが『星条旗よ永遠なれ』を演奏し始めるんだ。すると、取っ組み合いをしていた連中がみんな立ち上がって敬礼をするんだよ。軍人は国歌が吹奏されているときには気をつけをしなければいけないと教え込まれているからね。でも、試合が白熱してくると喧嘩も多くなって、5分おきにブラスバンドの出番になったりして、面白いんだ」
シーサイドフィールドの背景の崖の上の「根岸の競馬場」の回りは将校クラスの居住地で、広々としていて、平屋の白っぽい家が芝生に囲まれて間隔を空けて建っていた。日本人の住宅とは異質なので、子どもの私たちもそうした家を「ハウス」と呼んでいた。私は丘の上のその空間の、車や雑踏の騒音のない静けさや空の広さが好きだった。アスファルトがしかれた道路は緩やかな坂が連なり、私のような近所のガキどもは、チェーンリンクのフェンスの破られている箇所を知っていて、そこから中に入り込んではローラースケートで遊んだ。しばらくするとMP(ミリタリーポリス)がやって来ておこられるが、短時間勝負のスリルに満ちていた。
1969年(昭和44年)、「根岸の競馬場」のスタンドを除いた地区、14.2ヘクタールが横浜市に返還され、市民に開放された時は、ただの芝生の広大なスペースがこの上なくうれしくて、段ボール箱をもっていって傾斜を何度も滑り降りたり、ブーメランを思い切り投げて日暮れまで遊んだ。いまでは「森林公園」という大げさな名前がつけられて飼い犬の集会や花見の名所になっているが、かつてゴルフコースだったことを感じさせる地点がいまでも何カ所かある。
それに気づいたのは、私が再び横浜に住み始めた頃だから返還から30年以上もたっているが、林の縁に立つと、ここがティーで、あのあたりがフェアウエイだったに違いないと感じる場所がある。朝のジョギングがてら、ブレディーとコルチェスター作のかつてのルーティングに思いをめぐらし、米兵がガムを噛みながら腕力にものを言わせて球を叩いていた様子を想像した。幼い日の記憶がそこに重なるからだろう、私自身はそこでプレイをしたことはないにもかかわらず、「根岸の競馬場」は自分のゴルフの記憶の底辺にあるような気がする。もちろん「根岸の競馬場」が日本のゴルフ史の始まりに近い由緒をもっていることをあとで知ったのだから、郷愁めいた思いは、自分の存在しなかった過去の歴史への憧憬にほかならないのだろう。とにかく、私のミュニ・ゴルフへの愛着は、そうした横浜と、もち込まれたアメリカの記憶に、どこか重なっている気がする。
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2002年に親父が死に、私は山元町の西有寺の、横浜港を見下ろす高台の共同墓地に小松家の墓を作った。といっても、親父が遺した金で建てたのだから偉そうなことは言えないが、私は自分の嗅覚で決めた墓地に満足している。墓を決めて満足とはいかにも出来上がった話だが、50歳を越えてからいろいろ感じるようになったのだ。ともあれ、家族のルーツというなら横浜で、しかも港の近くに違いないから満足に値する。親父は秋田から北海道へ移り住んだ小松道太郎の長男として帯広で生まれ、予科練で終戦を迎え、明治大学を出て横浜に就職した。仕事をもらうために、いま開港資料館になっている建物にあった三菱商事系の金商トレーディング横浜支店へ頻繁に顔を出していた親父は、そこで働いていた横須賀出身の母に出会い、ちょくちょく食事に誘い、そして長者町3丁目の角にある大場ビルに所帯をもった。そこで生まれた私が港の周辺で育ち、親父は港の会社に勤めあげて死んだのだから、墓は港のそばでいいだろうと思う。いまはアメリカ・フロリダに暮らして日本に戻る予定はない私が、迷うことなくそう言えるのも、納まるとすればその墓になるからだろう。