ゴルフでは、打とうとして身構えたときに球が動いたら罰を受けなければならなかった。気まぐれな突風の仕業でも、一罰打を甘受して球をもとの場所に戻すのが規則だったのだが、4年に一度のルール改定年度となる来年から変わる。球の動いた原因が「プレイヤーでないと分かる場合、あるいは事実上、確かな場合に」罰はないという例外規定が設けられることになった。
ホールの大きさ以外に規格のない自然のコースで、刻々変わる気象下に行うわけだから、「無条件罰打」はひとつのユニークな割り切りだった。止まっている球が動いた原因を立証する術はない。意思をもってクラブで打つこと以外に、球を動かすことは許されないゲームなのだから、ツキがないと諦めて飲み込むのが1744年に最初に明文化されて以来のゴルフ規則の思想だった。
今年は優勝賞金1億円のプロの試合の、決戦の日曜日のグリーン上で、止まっていた球が動いた。テレビ中継はその様子を繰り返しスロー再生で見せ、すべてをプレイヤーの責任とするのはまるで悪習であるかのごとく感じさせる効果を生んだ。自然条件による運、不運は切り離して排除し、より純粋に技術を試す勝負にすべきではないのかと、ルール再考のゴルフ世論が高まった。
Embed from Getty Images
新ルールは正月元日から施行される。例外規定ができたからには当事者は主張し、テレビがそれを映して、一つの行動基準として視聴者に作用するだろう。 悩ましいケースの裁定で競技委員会が試みるのは合理主義的な類推でしかない。物を言うのが増幅された印象と多数決なら、過去数百年、ゴルフを他のスポーツと分けてきた自律の精神が泣く。大げさに痛がってみせるサッカー選手と同じメンタリティーがもち込まれるようなものだ。
そもそも環境要素がプレイヤー全員に対して一定でないことは、フェアかアンフェアかの問題外である。気まぐれな風のおかげで1億円を逃すなんて愉快ではないか。ゴルフでの運、不運は娯楽要素として、本人も苦笑いしつつ面白がってしまえばいいのだ。やせ我慢のようで滑稽だし、潔いというよりナイーブに過ぎると思われる向きもあるだろうが、たかがゴルフのことで、自分のせいではないと強く申し立てることにどれだけの意味があるのかと私は思う。
(2011年12月15日付毎日新聞夕刊掲載)