タイガー・ウッズが中東ドバイでの試合中、グリーン上でつばを吐いた。決戦の日曜日、後続組もいる優勝争いのさなか、画面に大写しになる注目の場面だった。現地の英国人アナウンサーはしばし絶句の後、これが路傍であっても眉をひそめられることだろうにと、声を落として嘆いた。
不毛の砂漠に瑞々しい緑のじゅうたんを敷いて世界の一流選手を呼ぶことは、かの地の人々の夢だった。彼を数々の劇的な勝利に導いてきた激しい集中力が、他者の思いや存在を無視した傲慢な振る舞いにつながってしまうのは悲劇だ。主催の欧州ツアーは罰金を科し、ウッズはツイッターで謝罪した。
クラブを叩きつけ、 毒づくこと同様、以前から指摘されてきたことだが、不快感が消えない。いったい、教え込まれていない無作法、不躾ならば彼だけの罪なのか。そして、発信者を身近に感じられるはずのツイッターに乗った謝罪文が、どこか身勝手さの延長線上にあるように虚ろに感じられるのはなぜなのか。
同試合ではホールアウトしたプレイヤーが腹立ち紛れに球を池に投げ込むシーンも頻発した。ウッズを退けて世界No.1となったウエストウッドまでもがその暴挙に及ぶのを見せられると、ゴルフなら許されるのだったかと足元の揺らぐ思いがする。
テレビは子どもたちに価値や規範を刷り込む。スポーツはわかりやすい教材でありスーパースターは最強のモデルだ。しかし、そのモデルはじつは私たちを集約して映し出す鏡に他ならず、理想も現実も象徴的に体現してしまう。エチケットの欠如はゴルフの問題ではなく社会問題だ。
新しいコミュニケーションを謳歌している私たちは、その楽しさ、便利さの陰に、破壊されるものがあることを忘れやすい。そこには、時間も距離もない安全な場所に身を置いてダイレクトに個人へ発信する無責任さも潜んでいて、知らぬ間に平衡感覚を麻痺させている。
砂漠緑化技術の粋を集めてつくられた美しいオアシスのようなコースと、背景に林立する摩天楼。この週のゴルフが暗示していたのは私たちのいまの日常なのか。何か現実的なものを見失ってはいないかと、私は薄ら寒い思いで自問した。
(2011年2月24日付毎日新聞夕刊掲載)
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