ゴルフの道具に宿るもの

オイゲン・ヘリゲル博士は大正13年に招かれて東北帝国大学で哲学とギリシャ語を教える傍ら、5年にわたって弓道を学んだ。小銃射撃の心得のあるドイツ人の彼が弓の奥義を会得する過程を著した『弓と禅』には、読み返すたびに発見がある。

阿波研造師範が、いたずらに技巧を主としてはいけないと説き、「悪い射に腹を立てないだけでなく、良い射に喜ばない。快と不快の間を右往左往することから離脱せよ」と戒める。射ることは一矢ごとに魂を練り、自己を見つめつつ人格を向上せしめる任務を有する、という師範の信条を知るにつけ、ゴルファーにとっても本当に意味があるのは、球を打つという行為そのもののもつ純粋な力というべきもの、さらには、球を打ちたいという根源的な欲求なのではないかと思えてきた。ゴルフはその自律の精神や高潔な態度、他者への思いやり、といった教育的な価値を強調されることがあるが、それは表面的な我々の期待でしかない。

というわけで、一向にゴルフの冴えない私が、それでもなおさら入れ込む言い訳を見つけたいという下心から再び手に取って読むうち、今回は次の箇所に至ってはたと膝を打った。

E Herrigel.jpeg「私が引き続いて射損ねると、師範は私の弓で二、三回射放したのである。すると弓はてきめんによくなった。あたかも弓が、前と違って物分りが良くなり、自ら進んで自分を引かせるかのようであった・・・」

目の前で範を示されたことの単なる学習効果というには漠然としすぎている。道具を疑う気持ちが芽生えかけていたところをぴしゃりと否定された「気付薬」的効果なのか。なにかの暗示的作用が弟子の潜在力を引き出す「呼び水」なのか。

「あやかる」とはこのことかと考えて、すぐに空想は膨らんだ。プロが使っているクラブや球と同じものを使いたいという私自身の気持ちが、にわかに説明されたように感じた。技量も省みず、私はプロ仕様の道具を求める。それはヘリゲル博士の稽古を追体験したいという無意識の願いだとは言えないだろうか。日夜、自己研鑽に励んでいるプロたちの間でさえ、最近、ブームのように長尺、中尺のパターが流行しているのも同様ではないかと、ふと思った。

(2012年4月5日付毎日新聞夕刊掲載)弓と禅.jpeg

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