第2次大戦終結から4か月という1945年12月、商工会議所はオーランドをアメリカのスポーツの一大拠点にしようという目論見の一環として、戦時公債で1万ドルをかき集めて多くのトッププロゴルファーたちを呼び集め、“Orlando Victory Bond Open(オーランド戦勝公債オープン)”と銘打ったPGAトーナメントを開催した。“オーランドオープン”と呼ばれたこの試合は、戦時中の閉塞感から解放された喜びのなかで大いに注目され、当時、まだ舗装されていなかったパーストリートは、ベン・ホーガン、サム・スニード、カイ・ラフーン、ジョニー・レヴォルタ、ポーキー・オリバー、ジャグ・マクスペイデン、トニー・ペナといった当時をときめくプロたちを見ようというファンたちがぞろぞろとダブスドレッドへ向かった。オーランド・モーニングセンティネル紙は「間違いなく、オーランド始って以来の一大スポーツイベント。この4日間、ゴルフ界の目はダブスドレッドに注がれるだろう」と書いた。最終日の12月2日、ギャラリーの数はおそよ5000人だったというが、オーランド市のあるフロリダ州オレンジ郡の当時の人口は7万人(1940年調査)に過ぎないから、いかに多くの人が集まったかわかる。
優勝は兵役を解かれて4ヶ月のベン・ホーガン。6打差をつけての優勝で公債2000ドル分(現金にして1500ドル)の賞金を手にし、ヒーロー復活を印象付けた。ちなみに、オーランドオープンにバイロン・ネルソンは出場していなかった。ネルソンの1945年は語り草だ。年間18勝。その中には11試合連続優勝という空前絶後の記録も含まれている。ネルソンは疲労回復のためにオーランドへは来なかった。ベン・ホーガンは1940年から1942年までPGAの賞金王で、復員後、テネシー州でのナッシュビル・インビテーショナルから再び勝利を重ね始め、12月のオーランドオープンを含め年間5勝。ホーガンのキャリアは1946年、47年に絶頂期を迎えることになり、それと同時に、現在につながる戦後のプロゴルフの発展が始まる。ダブスドレッドはオーランドにとっても、アメリカのゴルフ界にとっても、一つの起点のような場所なのである。
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ところで、ベン・ホーガンのようなトッププロは当時、まだ一握りしかおらず、大方のプロたちはいわばブルーカラー的プレイヤーがほとんだった。つまり、試合のない時はクラブハウスにたむろするか、コースに出て賭けゴルフをしている荒くれ者たち、という時代。アーカンソー州出身ながらオーランドに長く住んだカイ・ラフーン(PGA10勝)はパターに八つ当たりをすることで有名で、拳銃で吹っ飛ばしたり、バラバラにしてダブスドレッドのバンカーに埋めたり、車の後ろのバンパーにロープでくくりつけて町中を引きずり回したりしたらしい。ともかく、まだプロゴルファーが稼げる時代ではなかったわけだ。
しかし、華やかな気分は漂っていたのだろう。カール・ダンは、戦前から避寒地としてオーランドへやってきていた各界の著名人やスポーツマンと親交があったために、クラブハウスには常にセレブたちがいたし、ダブスドレッドの近隣には軍の基地も幾つかあったので、制服姿の軍人たちもいた。もちろん、ゴルフをする兵士たちも多かった。カール・ダンは彼らのためにフルオーケストラを雇って、クラブハウスのパティオで演奏させた。バーベキューが振る舞われ、プールでは素っ裸の子どもたちが夜まで泳いでいた。
*) Steve Elling, Swing into History. Orlando Sentinel紙, 2005年12月21日付記事