(7) ドナルド・ロスとトム・ベンデロウ

オーランドで最古のクラブであるカントリー・クラブ・オーランド(当時はオーランド・カントリー・クラブ、1934年改称)は、上流紳士の社交クラブとして1911年に設立された。その趣意にはもう一つ、米国北部に住む富裕層にお金を使わせるという目的もあったらしい。当初9ホールだったコースは、1918年にドナルド・ロス(Donald J. Ross ; 1873-1948)の手によって18ホールにアップ・グレードされた。

ドナルド・ロスといえば、20世紀初頭のコース設計家としてアメリカのゴルフ好きなら誰もが知っている。ハリー・コルト(1869-1951)、アリスター・マッケンジー(1870-1934)とともに、コース設計の黄金期を開いた巨匠である。コルトはリンクス・ゴルフのイギリスにパークランド・コースをつくり、パートナーだったマッケンジーは晩年のオーガスタ・ナショナルに象徴される「スリリングで、楽しい」コースをアメリカ、オーストラリア、アルゼンチンにつくった。そしてロスは、終の住処となったノースキャロライナのパインハースト・No.2コースに代表されるような、原点たるリンクスの要素を守りつつ全米に413コースを造った。

カントリー・クラブ・オーランドの、もともとの9ホールを設計したのは、ロスより早くスコットランドから移住してきたトム・ベンデロウ(Thomas Bendelow;1868-1936)だった。そして、それから12年後に開場するダブスドレッドの設計者もベンデロウだ。ベンデロウはロスよりも早く設計の仕事を始め、それまでゴルフの無かった町にコースを造りまくっていた。9ホールのコースが多かったが、アメリカン・ゴルファー誌(The American Golfer)1909年7月号にはベンデロウが519コースをレイアウトしたとあり、ゴルファーズ・マガジン(The Golfer’s Magazine)1914年8月号では600以上を設計したと書かれている。ほとんどは新しいコースで、ベンデロウは1895年からの30年間で、まさに何もなかったところに驚異的なペースでコースをつくっていたのだった。ロスは、20世紀に入ってから設計の仕事を始め、1940年代までに413(399?)コースを設計したが、うち107コースは改造である。ロスが改造したコースには、ベンデロウが最初にレイアウトしたものもある。有名なところでは、1922年に20歳のジーン・サラゼンが勝った全米オープンの開催コースであるシカゴ近郊のスコーキーCCや、アトランタのイーストレイクGC、シンシナティのハイドパークG&CCなどがある。

(一覧表)

設計者のいないセント・アンドルーズ・オールドコースは、もともとそこにあった。いわば神の造ったコースで始まったのがゴルフだ。ゴルフの発展普及とともに、コースが造られるようになったのはついこの150年ほどのこと。英国各地に優れたリンクス・コースを手作業で造り、「コース設計の父」と呼ばれるべき存在はオールド・トム・モリス(OLD Tom Morris ; 1821-1908)。コース設計の創成期を築いたという点では、ウィリー・パークSR(Willie Park Sr. ; 1833-1903)やトム・ダン(Tom Dunn;1849-1902)の名もあげられる。

ウィリー・パークSRは全英オープン初代優勝者としての栄光があるが、ブラックヒース生まれのプロ、トム・ダンは影が薄い。父のウィリー・ダンSR(Willie Dunn Sr.;1821-1878)は、「もし、ダンがそれをやっていないのなら、それはまだ誰にも手を付けられていないことだよ(If a Dunn hasn’t done it, it hasn’t been done.)」と、コース作りについての冗句のような箴言の残る人物。プレイヤーとしては華麗なスウィングで飛距離も出た。セント・アンドルーズ、オールドコース14番ロングのダニーズ・バンカーは彼の名がついている。ロイヤル・ブラックヒースGCでグリーンキーパーでありプロとして20年、その後、リース、マッセルバラ、ノースベリックに勤め、史上はじめてゴルフクラブの製造販売をビジネスにした。ジェイミー・ダン(Jamie Dunn;1821-1871)とは一卵性の双子である。ジェイミーも優れたプレイヤーだったらしいが、ウィリーの活動を助ける影のような存在としての記録しかない。

トム・ダンの弟のウィリー・ダンJR(1865-1952)はマッセルバラで生まれ、1894年にニューポートCCで非公式に行われたマッチプレイによる全米オープンのチャンピオンであり、シネコックヒルズのオリジナルの12ホールをレイアウトした。そしてトム・ダンの息子のJD・ダン(John Duncan Dunn;1874-1951)は叔父のあとを追ってアメリカに渡り、かのベイブ・ザハリアスに最初のゴルフ・レッスンを施した。

ウィリー・パークJRがコース設計の理論的な基礎を初めて本に書き、ロンドン近郊のサニングデール(オールドコース、1900年)をつくって、海岸線でなく内陸の“パークランド・コース”を発明。

ケンブリッジ大学を出た弁護士出身ハリー・シャプランド・コルト(Harry S. Colt ; 1869-1951)がそれを広く各地に造って典型を確立し、同僚で軍医出身のアリスター・マッケンジー(Alister MacKenzie;1870-1934)が豪、南米、そして米国に戦略を要求するコースを、そして、オールド・トム・モリスに学んだ後で米国に渡ったドナルド・ロス(1872-1948)が原点たるリンクスの要素を守るコースを全米につくった。

カナダではスタンリー・トンプソン(Stanley Thompson ; 1894-1952)が土地の自然を愛するための美しいコースを造っていったほか、20年代に米国がゴルフ黄金期を迎える前に先駆的な仕事をした設計者として、ほかにもA.W.ティリングハスト(A.W. Tillinghast)や、C.B.マクドナルド(C.B. Macdonald ; 1855-1939)とセス・レイナー(Seth Raynor)のティームがあげられる。

現代ゴルフの商業化路線を切り開いたロバート・トレント・ジョーンズSR(Robert Trent Jones Sr. ; 1906-1999)までを先駆者たちと考えてもいいだろう。そして、現代の名匠たちが生まれた。テッド・ロビンソン(Ted Robinson ; 1923-)、ピート・ダイ(Pete Dye ; 1925-)、アーサー・ヒルズ(Arthur Hills ; 1930-)、ロバート・トレント・ジョーンズ JR(1939-)、ジャック・ニクラス(Jack Nicklaus ; 1940-)、トム・ファジオ(Tom Fazio ; 1945-)、・・・教科書を大雑把にまとめればそんなところだろう。そこには、わがトム・ベンデロウの名前は出てこない。

ゴルフの歴史のなかで、とくにコースに関しては、それほど多くはない専門家が、おもに競技としてのゴルフという観点から評価してきたものが、いつの間にか常識のように語られるようになってしまった、ということだろう。ダブスドレッドの設計者トーマス・“トム”・ベンデロウ、彼はいわば、「木を植えて忘れられた人」だ。

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