
ダブスドレッドの16番は、まっすぐで一見広く見える396ヤードのパー4だが、曲げたら打ち直しておいた方がいい。左はフェアウエイに沿うようにカート路があり、そこから5ヤードでディッチ(雨水溝)があってOBだ。その向こうはアパートが並んでいて、1階の住人の皆さんのちょっとした庭スペースにはプランターや陶器の置物や野鳥のエサ台なんかが置かれている。右はフェアウエイから10ヤードでOB。年数を経た草木が鬱蒼として見えにくいのだが、いくつかの大きな平屋の邸宅がある。
16番のティーショットをプッシュアウトしてしまうことが多い。ティーが砲台のように持ち上げられていて、右側は打ち出しから100ヤードくらいまで大きな楠の林が覆いかぶさってくるように続いている。きょうは左に向き過ぎないように意識して打って、なんとかフェアウエイにとどまった。年月を経ているために薮のように茂った様々な庭草からビスマルク・パームが突き出て、高い垣根のように見える位置まで、多少の満足を感じつつ歩く。
このコースを80年以上も前に造ったカール・ダンの家がそこにある。いまでは庭木も古くなり、大きくなりすぎてまとまりを欠いている部分もあるが、建物はよく見るとずいぶんと意匠を凝らしたお屋敷であることに気づく。私は何度か盛大なスライスを打ち込んでいるので、おそるおそる近づいて見たことがあるのだ。

H・カール・ダンは1940年に虫垂炎を破裂させて56歳という若さでなくなった。その5年前の1935年、盟友だった建築家、サム・ストルツ(Sam Stoltz)に依頼して、この16番ホールの右に自宅を完成させた。彼はこの家で死に、夫人は1965年まで住んでいたという。以後、現在までダン家が3代に渡って受け継ぎ、歯科矯正学で博士号をとってすでに引退している3代目が現在の主だ。
すでに4代目も矯正歯科をやっているという話を思いだしながら、7番アイアンを抜いた。ここのグリーンも砲台で、奥行きがあって大きめ。手前の左右にバンカーがある。奥は15ヤードで車のしきりに往来するパー・ストリートだ。もちろんフェンスなどない。雨の少ない冬から春先までのこの時期はとくにグリーンが硬いので、奥へこぼすことを恐れて距離が足りないと、パーをとるのは厳しい。グリーンの真ん中を狙って大きめに打ったが、フェースが開いてしまって右バンカーの手前ラフに落ちた。
「100というスコアが完璧なゴルフとみなされよう。なぜなら、もし貴君が100を切るゴルフをするのなら、仕事をほったらかしにしている証拠だし、もし100以上を叩くのなら、キミはゴルフをおざなりにしている証なのだから」
カール・ダンがどの程度の腕前のゴルファーだったのかはわからないが、1929年に出版した自叙伝にそう書いている。スコアの基準の妥当性は別としても、私のようなダファーには金言と受け取るべき言葉に違いない。
ダブスのレイアウトに、それほど巧みさはないように思う。一様に砲台グリーンで、それほどの起伏はついていないが小さくて硬い。グリーンまわりにはすべてのホールでバンカーが2つ以上ある。乗せられるかどうかでスコアが良くも悪くもなるコースだ。
「不器用な創作は、そつのないイミテーションよりもベターだ」
これも至言ではないか。この人物は不動産で財を成したということだが、なんとも潔い割り切りを感じる。カール・ダンはダブスドレッドを造ってから6年目の1930年に、オーランド市に対してコース全体を寄付するという申し入れをしている。将来も、ゴルフコースとして使い続けるという条件を付けてのオファーだったが、市当局では、ゴルフの将来性を予見することができず、話は立ち消えになったらしい。金持ちの夢想には付き合いきれないと受け止められていたらしいが、いまや、ゴルフに限って言えば、オーランドは世界一の拠点だから、やはりカール・ダンの先見の明とも言える。
その後、1941年ごろにはプロショップとバーにスロットマシンが置かれ、ギャンブラーのたまり場のようになっていた。ジンラミーの賭けでコースの半分が巻き上げられたという噂話の飛び交ったこともあったらしい。しかし、30年代から40年代を通してダブスはフロリダ中部でトップクラスのコースと位置付けられていた。結局、オーランド市は1978年になって、三代目カール・ダンから125万ドルでコースを買い上げ、いまに至っている。

自伝には、なぜかダブスドレッド創立の経緯について触れられていない。しかし、当時の新聞やタウン誌によれば、カール・ダンはある週末、オーランドCCの有力者たちと口論の末に脱会し、明けて月曜日には早くも市街目抜き通りのオレンジ・アヴェニューで、通りがかりのビジネスマンを捕まえては、一口1,000ドルの出資を持ちかけていたという。
経営の上手く行っていなかった養豚場の土地を買い上げ、家族が楽しめる施設をもち、ゴルフコースを核としたコミュニティーを作ろうという構想だった。懐疑的な声もあったようだが、プロジェクトはすぐに実行に移され、1923年にコースが完成するや、周囲には次々と家が建ち並ぶことになった。地元紙オーランド・イブニング・スターによれば(1957年10月4日付、編集者の回顧録記事)、カール・ダンはその日のお昼までに100人の出資を取り付けたので、結果的に一人あたり250ドルですむこととなったという。そればかりか、コースに隣接する宅地が売れていくにつれ、出資者は数度の配当金を受け取ることにもなった。
日本では一般的に想像しにくいことだが、現代のアメリカで不動産開発にゴルフ・コースは不可欠な要素だ。できるだけ名のある設計家にコースをレイアウトさせ、各ホールを取り囲むように家を建てる。宅地とコースの抱き合わせ開発はウィリー・パークJR(1864-1925)が先駆けで、60年代になってロバート・トレント・ジョーンズがモダン・ゴルフコース設計の主流にしたのだが、カール・ダンの発想はかなり早かったわけだ。
カール・ダンがオーランドCCを辞めるに至った理由を知りたいところだが、旧体質の保守性に嫌気がさしたのではないかと示唆する新聞の懐古記事があっただけで、はっきりしたことはわからない。市史類を見てもほとんど触れられていないので、これは私の推論だが、いわば、不動産ブームで‘成り上がった’カール・ダンにとって、オールドマネー(旧来の金持ち連中)のつくったオーランドCCは、あまり居心地のいいところではなかったのではないか。
